仏教用語の知恵

思いやりは毎日の中にある

こんにちは。
慶国寺の渡辺知応です。

今月は仏教用語の「ほとけ(仏)」について
少しお話ししたいと思います。

「仏さま」と聞くと、
金色に輝く像や、
お寺の本堂にまつられている荘厳な姿を
思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

あるいは、ご先祖さまの法事のときに
「仏さまに手を合わせましょう」と
声をかけられた記憶がある方もいるかもしれません。

けれども、「ほとけ」という言葉の
もともとの意味は、
実は「目覚めた人」です。

これは仏教の原語であるサンスクリット語の
「ブッダ(Buddha)」を日本語に訳したもので、
迷いや苦しみの根本にある
「執着」や「無知」から目覚めた存在を表します。

お釈迦さまはその代表的な存在であり、
仏教の始まりをつくった偉大な方として知られています。
しかし仏教の教えでは、
この「仏」という存在は決して特別な方ではありません。

人間として生まれ、
修行を重ねて心を磨いた末に、
誰もが到達できる理想の境地なのです。

怒りや悲しみに振り回されず、
他人を責めたり妬んだりすることなく、
穏やかで思いやりのある心を持ち、
真理に目覚めた人。

それが仏であり、
私たちもまたその道を歩む可能性を
持っていると説かれています。

また、日本では「亡くなった人は仏さまになる」とよく言いますよね。
これは、ただ死を意味しているのではありません。

仏教的には
「この世の苦しみや迷いを離れ、
安らぎの世界へと旅立った存在」
としてとらえています。

ですから、お仏壇に手を合わせたり、
命日にお花やお線香を手向ける行為は、
亡き人を思い出し、
つながりを感じる大切な時間でもあるのです。

こうした文化は、
仏教の教えが日本の暮らしの中に
根づいていることの証とも言えるでしょう。

日々の暮らしの中でも、
私たちはふとした瞬間に
「仏の心」に触れることがあります。

たとえば、
誰かのつらそうな表情に気づいて声をかけたり、
腹の立つことがあっても
深呼吸して気持ちを整えたりすること。

それはまさに、
私たちの中にある
「ほとけの種」が芽生えた瞬間です。

そんな日々の小さな選択の積み重ねが、
仏に近づく歩みとなっていくのだと思います。

仏さまは、決して遠くの世界にいる特別な存在ではありません。
今ここを生きる私たちの、
心のあり方やふるまいの中にこそ、
その教えは息づいています。

そう考えると、
仏教は難しい学問ではなく、
私たちの暮らしを静かに照らす、やさしい光のような存在なのかもしれませんね。

渡辺知応

渡辺知応

長秋山 慶国寺 副住職

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